黒電話の正体発覚!
こんにちは、しおくま商店のitoです。
先日記事にしました黒電話の正体がわかりました。
ブログを見て親切にメールを下さった方がいらっしゃいまして、
以前同じような電話を会社で使用されていたそうで、
本店支店のみの直通電話ではないかとのことでした。
「適当にハンドルを回すと先方がジリジリンとなります」とのことです。
ジリジリンという音の表現が素敵で
聞いてみたくなりました(*^^*)
確かに以前御殿山に支店がありましたし、
倉庫からは同じものが二台発見されました。
しかし、そのことを父や古くからのスタッフさんに伝えても
「うーん・・・、使ったことがないような・・・。」(--)
まるで記憶にないようで・・・。
使っていたのにわすれてしまっているか、
もしかすると塩熊では使用してなくて、
父お得意の「もらってきたもの」かもしれません。
(私がよくいろんなものを頂いてくるのは父が原因かもしれません
頂き物1 頂き物2)
使用法はわかりましたが、
なぜ塩熊の倉庫で眠っていたのかが不明な黒電話なのでした。
メールを下さったK様、
本当にありがとうございましたm(_ _)m
使い方がわかってすっきりいたしました
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謎の黒電話発見!
こんにちは、しおくま商店のitoです。
倉庫から謎の黒電話を発見しました!
ダイヤルもなく、あるのは後ろの「遠・近」のスイッチのみ。
そしてぐるぐる回るのであろう、ハンドル。
さぞかし古いのかなと思いきや、「NTT」の文字と昭和61年の年号!
謎です・・・。
もっと謎なのは、誰もこれを使ったことがないという事実・・・!
父も母も古くからのスタッフさんも、
「使ったことないなー」でした。
一体これは何故塩熊の倉庫にあったのでしょう?(^^;)
まあそれは置いといて、
NTTの文字がイマイチだったので
やすりでやすって、ポスターカラーの黒で塗りました(笑)
意外にわからないものです(笑)
この謎の黒電話は今はカウンターの横になんとなく置かれています
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古いトランクの修理をしてみる。
こんにちは、しおくま商店のitoです。
古いトランクを母屋から発掘しました。
なかなかいい雰囲気なのですが、
やはり古いだけあって皮紐が・・・!
そのまましばらく使っていましたが、紐がひらひらして邪魔なので
紐を補修することにしました。
木の部分に釘を打って皮ひもを固定するだけなので楽勝
と思っていましたが
いかんせん戦前の代物、固定したと思ったら
ぶちーん!と紐が切れてしまいました・・・。
紐が弱ってたんですね
紐を代えるか色々悩んだんですが、
紐が強くなったらいい問題ないだろうセロハンテープで補強することにしました。
これでうまく留まってくれました(*^ ^*)
セロハンテープも思ったよりも目立たないですし
ちなみに使った釘は風合いのある真鍮の釘↓
真鍮釘はアンティーク物によく映えるのでよく使います(^^)
やわらかいので、釘を打つのが難しいのが難点です・・・。
(今回もキリで下穴を開けてから打っています)
さて、このトランク、持ち主が判明しました。
修理するまで気がつきませんでした
荷物預けるときのシール(?)に「雄」の文字が見えるので
飛行機乗りだった
久雄さん(←以前記事にしております)のものだったようです。
持ち主がわかると
なおさら大事に使っていこうと思います♪
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熊と、写真と、しんきんと。
(この記事を含む下二件の記事は
塩熊の現在の営業とは関係ないおまけなお話ですので、
ご興味のない方には大変申し訳ありません。
歴史好きな方はふーん、と思いながらお気軽にご覧下さい)
こんにちは、塩熊商店のitoです。
いきなり、古い写真で申し訳ありません。
あまりに古い写真が出てきまして、
まあ、お盆ということで昔のことを思い出すのもおもしろいかも、
という事でお許しください。
写真の後ろの但し書きを見ると
なんと!大正9年。
当たり前ですが、戦前です。
母屋の前で写したっぽい写真で、
後ろにある塩熊ののれんは現存します、というか現役です(汗)
おそらく一番前でいい服着て写真に納まっている少年が、
先代の熊、長男の熊三郎だと思われます。
( 長男のなのに三郎の由来は「 「塩熊」の名前の由来」 ご参照ください )
どうも写真好きなひいじいさんの久次郎さん
(名前からご察しのように婿養子さんです)のおかげで、
結構写真は残っています。
左の写真の後列左が熊三郎ですね。
こうみると結構男前ですが、
孫の私は晩年禿げちゃったとこしかイメージありません(汗) ↓
幼稚園のころ、禿げた絵を書いて「俺はもうちょっと毛がある!」と
怒られました(苦笑)
この熊三郎、なかなか面白い男でして
塩熊の長男に生まれたくせに
戦争から帰ってきたらお金がなかったので、
本業を嫁にまかせて「みんなにお金を貸してくれる所をつくろう!」と
地元で信用金庫をつくっちゃったのです。
こうかくと簡単そうですが、
いろいろと大変だったそうです。
戦後 いろいろあってお金がなく、商売しようにも先立つものはなし。
信用金庫を作ろうと、出資金集めをするも、
「塩熊はしっているけど、信用金庫なんか知らんから金は出せん」
と追い返される・・・。
それまで、商家の長男として育ってきた熊三郎には
衝撃だったそうです。
いままでは「塩熊」の看板で商売していただけだったのか、と。
(たいした看板ではないんですが…)
前列左
いまではありえないかもしれませんが、
熊三郎は塩熊の社長(ほぼ名ばかりですが)と信用金庫の
二足のわらじを履いていました。
元が大正生まれのがんこものなので
ちょっと危ない関係の人が返す気がないのに「金を貸せ」と
しんきんに乗り込んできて、断ると
「このしんきんの前にダンプ停めて入り口塞いで
入れなくしてやる!
それが嫌なら・・・・」
と言われて、
「そっちの事務所にうちの砂 ダンプに積んで入り口に降ろして
入れなくしてやる!」
と言い返して撃退したとか、しないとか。
昔の事で、真偽は不明です。
これではどっちが、どっちだかわかりません(苦笑)
相手のほうもびっくりしたでしょうね~。
(あ、今は塩熊もこのしんきんさんもまったくこの様な事はありません。念のため。
40年も前の話ですし、本人も30年前に死んでいるのでいるので
何か問題があっても時効にして下さい)
兵隊の時は、米を炊けばお粥にし、荷物を持てば落とし、
まるで役に立たなかったそうです。
大正生まれの商家の長男なんて、
そろばんより重いもの持ったことないですからね(笑)
でも、役に立つのは交渉のとき!
日本軍のタバコなんかの物資を持って、
現地の村に行って食料と交換するらしいのですが
自分が行けば他の奴が行くよりいっぱい交換してくれる、
というのがご自慢だったそうです。
まさに大阪商人の本領発揮(笑)
昔の男にしてはウインドーショッピングが大好きで
(当時はそんな言葉すらないでしょうが)
休みになると大阪まで出て、
百貨店の屋上から、地下まで、
それはもう家具から、お惣菜まで見て歩いておりました。
どうも今にして思うと、
何が流行っているか、価格はどれくらいか
チェックしていたのかもしれません。
入院してもふんどしで、
死ぬまでパンツは穿きませんでした(苦笑)
お酒が大好きだったので、
いまごろは誰かとあっちでお酒を飲んでるんでしょう・・・。
最後になりましたが、今回信用金庫時代の写真は
H信用金庫さんから許可を得て拝借いたしました。
ありがとうございました。
古い写真をラガーフォトさんで焼き直しして頂きました。
古い写真は大事に保管しておいて、
焼き増ししてもらったものを展示したりしています 。
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熊と、戦争と、サイパンと。
こんにちは、塩熊商店のitoです。
おそらく戦時中の小学校の写真だと思われます。
後ろの窓ガラスに飛散防止のテープが貼ってありますし、
軍服(?)着てる男性の姿も。
当時、塩熊には息子が5人おりまして、
そのうち4人が従軍しました。(末っ子は国民学校)
そのうち亡くなったのは1名。
その人は久雄さんといって、三男です↓
飛行機乗りに憧れて、海軍士官学校に行って
戦闘機乗りになりました。
サイパンで亡くなっています。
今存命ならば80代後半ですが、
以前同級生だったというおじいさんがお客さんで来られたことがあります。
戦時中、久雄が帰ってくるという連絡があって
同級生が一同に母校の校庭に集まったそうです。
そうしているうちに戦闘機が隊列を組んで飛んできて、
小学校の上を通る時
一機だけが手を振るように大きく翼を左右に揺らしたのです。
「ああ、あれがひっさんや!」
と地上からみんな夢中で手を振ったんだそうです。
そのまま久雄さんは枚方には帰ってきませんでした。
情報統制がされている時代、おそらく軍が枚方に情報を流し、
みなを集めさせたんでしょう。
それでも、きっと久雄さんは嬉しかっただろうなー、と
思わずにはいれません。
↓ は「甲飛会 スイコエンにて」という裏書がある写真。
戦地に赴く前の送別会か、士官学校の卒業式かでしょうか。
多分まだみなさん20才位なのに、しっかりした顔つきです。
後ろの木が南国っぽいので、サイパンかもしれません。
23歳で亡くなられていますが、
いつの間にかその年を追い越してしまいました。
23歳は、若すぎます。
いつの世も、平和でありますように・・・・。
追記です(2011/09/02)
この記事に情報を頂きました。
海軍に士官学校はなかったらしく、
久雄さんが行っていたのは 海軍飛行予科練習生、
略して予科練というところだそうです。
そして、飛行機に乗って故郷に帰る「郷土飛行」という行事があったそうで、
きっとこれで帰って来たのかなあ、とおもいます。
教えてくださった方のお名前も連絡先もわからないので、
ここでお礼を言わせて頂きます。
教えて頂き、本当にありがとうございました。
勉強になりました。
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